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このサイトはこれまで一方的な搾取をしてきた動物たちとの関係に大幅な変革を試みようとする人たちの思い・考えを伝えるサイト、になると思います。

動物の権利思想基礎理論何故動物を食べるために殺したり実験に使うことがいけないのか?
ピーター・シンガーの基礎理論から個人の思想まで

ピーター・シンガー・著 「動物の解放」 から始まる動物倫理

既に欧米では動物の権利論というものがある程度確立されている。
動物を人間の都合のいいように利用すること、つまり動物を殺して食べたり実験に使ったりすることをメインに、その是非について大分前から欧米倫理界ではで議論されていたということだ。
単に動物が可哀そう、という感情をメインに動物利用の非を嘆き廃止を求めたりしているのではない。
アニマルライツ思想を持った人が動物利用の問題を訴えるとしばしばこう返されることがある「では植物は?昆虫は? 命に差別するの?」などだ。また時々テレビでお騒がせになっているシーシェパードの行動についての日本人の反応の多くは「お前ら牛や豚食ってんだろ!クジラ食うなってどういうことだ!」である。
つまりこれらは皆その思想の整合性について疑問を持っているということであり、論理的にきちんとした説明を求められている訳である。
私もアニマルライツ思想に目覚めた初めの頃はあらゆる問いに色々悩み考えたこともある。日本ではまだ大きな流れになっていないアニマルライツ運動だが歴史の長い欧米ではこのような問いは既に活発に議論されある程度の答えは出ているようだ。
このページではその動物の権利論について述べ、それを基に動物倫理問題を追及し、また他の個々人の視点などからも動物問題について述べていくくつもりである。
今ある答えに満足せず常に深く客観的に思索することでより良い道へと向かうことが出来るのだと言えるだろうから。

動物倫理問題に大きな脚光があびるようになったきっかけの書は1975年に出版されたピーター・シンガーの「動物の解放」であるといってよい。
p・シンガーとはオーストラリアの倫理学者で他に胎児の道徳的地位、自発的安楽死の擁護、飢餓問題、グローバリスムの倫理など、幅広く現代の倫理的諸問題について論じている。(一般的には動物の権利問題の人として有名らしい)
私がこの書を読んだのが動物問題に目を向けてから2年くらいたってから、2011年の春頃だったと思う、というのもしばらく絶版でその頃新しくなって再販したためである。
定価で4,620円もする結構な金額の本なんですわ、これが・・・
その内容というのも私はある程度は見聞きしていて、勝手にだが堅牢な論理で動物利用の不正を論破していくみたいなイメージを持っており、読む前は色々な角度から緻密な論理で動物の権利を訴えていくんだろうな、と予想していた。しかしながら読んでみると個人的な感想としては物凄く当たり前の原理を中心にしあくまでその原理を基に突破していくとの印象を受け、結構肩すかしでもあったわけだ。
さてその当たり前の原理となる軸の主張は何かと言うと「種差別」についてである。
種差別という言葉を聞いた事がある人は動物の権利問題をかじった人しかいないだろう。
ということで次に種差別の概念について説明してみる。


種差別(スピシーシズム)とは

種差別とは種が違うことを理由に差別をする事である。
シンガーは種によって差別することは人種の違いによって差別すること、性別の違いによって差別することと同じように倫理的に許されないことだと言う。
「利益に対する平等の配慮をすべし」という道徳原理を軸に、人間であれ動物であれ配慮の対象となりうる存在であれば平等の配慮が必要だと説く。
具体的にはつまり人間は殺されたり虐待されたりすることから基本的には守られているのに動物にはそれがされていないのは道徳的に許されないことだという。
もう少し深く検討してみよう、種の違いによる差別がいけないのだとすると、では私たちはどの生物の利用を是としどの生物の利用を非とすれば良いのか、そしてその根拠を何処に求めれば良いのだろうか?という問いが生まれるであろう。
それについてシンガーは18.9世紀のイギリスの功利主義(*1)の創始者であり哲学者のジェレミー・ベンサムの「苦しむことが出来るか出来ないかを以て道徳的配慮の対象か否かを決める」という主張を取り入れることで偏見に囚われず恣意的な判断から逃れられ公正中立で平等な配慮が出来るという。
苦しむことが出来るとあるが厳密には苦しんだり楽しんだりする能力、つまり感覚の有無を基準に判断すれば良いということになる。
それが3行目で太文字で表記した「配慮の対象となりうる存在」だという。
では何故その有無が重要になるのだろうか?
それは差別が何故いけないのかというと被差別者に不当な不利益をあたえるからであり、不利益を持つということは原理的にその者が感覚を持っていないと意味をなさないからであるという。
この辺の説明は「動物の解放」本体より「山内友三郎・著 シンガーの実践倫理を読み解く」のほうがわかり易いので以下に引用する。
{配慮すべき利益を考察の対象とする場合、その対象が少なくとも感覚を持っていないと意味をなさないからである。何かを苦しんだり楽しんだりする能力は、そもそも利益をもつための不可欠の要件、つまり利益を云々することが無意味にならないためにまず満たされなければならない条件であるからである。そして逆にもしある存在が苦しんだり喜びや幸福感を持たなければ考慮にいれるべきものはなにもない。石が利益をもたずマウスは利益を持つと言えるのは、ただ一点利益という性質上それが感覚の有無に原理的に依存しているゆえだという。}
引用終わり

この考えてみると当たり前の基本的な原理があるからこそある意味では菜食主義を取り入れる事が重要になるといえるわけである。つまり畑から大根を引き抜いて包丁で皮をかつら剥きにしたり大根おろしでぐちゃぐちゃにしても問題ないが、動物に同じことをしたら問題があるというわけだ。
また何故動物の虐待や殺害が私たちの感情に強く訴えてくるのかというと、まさにこの有感覚性が基になっているといえよう。
この原理がある限り現代の容赦のない経済動物の利用を肯定することはどうしたって難しい、といってもこの原理など誰でも元々知っている事なのでありそれをわざわさ御丁寧に論理的に説明したのがピーター・シンガーという事でもあるのだが。
また違う視点から言えばこの当たり前の原理すら無視しようとする現代の動物利用に大きな問題があるのだと言えよう。

種差別について多少はご理解いただけただろうか?

「動物の解放」においてこのような理論的根拠は第一章「すべての動物は平等である」に書かてあるのみで、第2章「研究の道具」では種差別の思想からくる動物実験の問題、第3章「工場畜産を打倒せよ」では種差別の思想からくる畜産動物の扱いの問題と続き、いかにその差別が酷く惨いものかを論じている。
第4章「ベジタリアンになる」では菜食主義について論じ、第5章「人間による支配」では人間による動物利用の歴史、特に西洋圏での動物観について宗教や哲学を織り交ぜて考察している、第6章「現代のスピシーシズム」では現代の種差別の思想について幅広い観点から論じている。
以上のように何故動物を苦しめることがいけないのか?の理論的根拠は第1章にまとめられているだけである。
また動物倫理については同じくピーター・シンガー著の「実践の倫理」で、第3章「動物に平等を」において同じことを論じている。
また第4章「殺すことのどこが不正なのか」、第5章「生命を奪うー動物」において動物の命を奪うことについて、人間の命を奪う事、胎児の命を奪うこと、それ以外の非人格と言える人間の命を奪うことなどの比較から更に緻密な理論で深い考察をしている。

さて、ここまでの話ではあくまでも動物は人間と同じく感受性があるため平等の配慮が必要だということを述べた。
では動物の命を奪うことについてはどうなのだろうか?
菜食主義をとる理由のベースは動物の虐待を避けることではなく動物の殺害を避けることある、動物の痛み苦しみへの配慮が重要であるのなら殺す際に恐怖を感じさせず無痛で殺す事は罪にならないのではなかろうか?
当然そのような疑問が生まれる、では次に動物を殺すことについて述べてみる。


動物を殺すこと パーソン論について


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